Mulindi Japan One Love Project

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2003年9月発行

Preface

ルワンダでは歴史始まって以来の大統領選挙が、8月に行われました。内戦が終わり、9年経ったルワンダ。これからが本当の発展の時期。ワンラブもルワンダの歴史と共に、前に進んでいきたいと思います。

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巡回診療月間

5〜7月にかけて、ガテラも吉田も日本で報告会などを無事に終わらせることができました。 その間、ルワンダは少し巡回診療のペースを落としていましたが、 8月にはペースを再び上げ、12県全てを回りました。スタッフのみんな、お疲れさま。

巡回にはさまざまな症状の障害者たちがやってきます。 両足のない人、ポリオなどで麻痺してしまった足を引きずりながら来る人、複数の子供に車椅子を押してもらっている老人。 皆それぞれ問題を抱えています。経済的・精神的な悩みが多いようです。 障害のため自由に動くことができず、家族や近所の人たちに負担がかかってしまっていること、 仕事に就いていないため収入がなく、家族を支える事ができないこと (例:子供を学校に通わせることができない、病気になっても病院に連れていけない)、 障害のために、回りの人たちからのけ者にされてしまうことなど、どれも深刻です。 これらの問題を一度に解決することはできません。でも大切なのは、彼らの声を聞き、 もっと行政を絡め、皆で解決していこうと努力することだと思います。

そのためには障害者たちが力を合わせ、まとまっていく必要があります。 場所によっては、自主的に組織を作って活動を行っている障害者たちもいます。 でもまだ横のつながりが弱いため、せっかくの情報が伝わっていません。巡回診療という手段を使って、 ネットワークを作っていけたら、きっともっと広がっていくのではないでしょうか。

実際の診療はいつも戦いのようです。一番大変なのはソーシャルワーカー。いわば彼女はみんなの「愚痴聞き係」です。 みんなここぞとばかり、自分の問題を打ち明けるので、最後の方には彼女はぐったりしています。 そしてもう一つ彼女をぐったりさせる理由として、集まった人たちが順番を守らず、 我先にと机の前に押し寄せるということもあるでしょう。 それを見るたびに、「日本人はなんと、整然と並ぶ事に慣れている人種だろう」と思います。 きちんと並んでくれれば、スムーズにそしてもっと時間的にも短くて済むだろうと思いつつ、なかなかこれがうまくいかない。 困りながらも彼らのペースで仕事を進めていく私たちです。

製作、これもてんやわんや。新しく作る人、既に前回型取りを終わらせ仮合わせをする人、 完成した義肢装具を受け取る人…。新しく作る人はなんとなく緊張しています。 一体どんなものができるのだろう。自分は果たして歩けるようになるのだろうか、きっとそんなことを考えているに違いありません。 仮合わせの人は、おっかなびっくり歩いています。後ろには義肢装具士がくっついて、歩き方の指導。 「背筋をまっすぐ、前をしっかり向いて!」あまり臆病な人には愛の鞭。 時として、張り切りすぎて転んでしまう人もいます。 「無理をしないで、ゆっくりと。そうそう、その調子。」 そして義肢装具を受け取る人は、得意そうです。 うらやましそうに受け取る姿を見ている人たちを、ちらちらと一瞥しながら、心なしか鼻息が荒い。 そしてみんなの前を、ちょっと肩で風を切りながら歩いています。

そんなみんなの姿を見て、ふふふと笑っている私たち。何と言っても一番嬉しいのは、彼らが義足を履いて、 あるいは義足を担いで(人によってはもったいないからと言って、履かないで大事に担いで持って帰る)、歩いているその後姿を眺めること。

でも反対に残念なのは、義肢装具をもらえずに帰っていく人たちの後姿。 せっかくここまで来てくれたのに、訪れる障害者が多すぎて、製作が追いつきません。 その場合は、次回あるいは更に先に延ばされてしまいます。そんな姿を見ると「ごめんなさい」と謝るしかありません。 キブンゴ県の巡回診療の時に来た男性は、両足が不自由。萎えた両足を両手で支え、 一歩一歩(と言うよりは一這一這)進みながら帰っていくその姿を見た時は無念さで胸がいっぱいになりました。

自分が義肢装具がもらえないとなると、みんな必死で訴えてきます。 「何であの人はもらえたのに、自分は駄目なのか?」口々にそう言います。 彼らの訴えはもっとも。それは私たちも痛いほど理解しています。 でも、でも現実は思ったようにいきません。巡回診療は、いつも嬉しさと悔しさが一緒にやってくる。

車椅子の配布。同じような症状の障害者が4人います。皆両足が萎え、立つことができません。 彼らは装具を履いて歩くこともできません。移動する手段として、一番適当なのが車椅子。 でもその時は3台しか用意していませんでした。そのうちの3人に車椅子を渡したときの、残された一人の表情。 悲しそうな、うらやましそうな顔。車椅子に乗り、具合を試している3人を、ずっと残された一人はそんな表情で見つめていました。 そのおじいさんは私たちに訴えるでもなく、おんぶして来てくれた子供の背中に再びおぶさり、帰っていきました。 ごめんね、おじいさん。でもそんなおじいさんに、「この次は必ず」と約束できない私たち。

とにかく、とにかくがんばろう。彼らが一人でも多く、自分たちで移動ができるように。そして立ち上がれるように!

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大虐殺から9年目の現場から

首都キガリから車で1時間ほど走った所に、ンタラマ、ニャマタという二つの教会があります。ここは94年の内戦の時に大虐殺が行われてしまった現場。

先日、日本から戻る時、私の父が一緒にルワンダに行き、父と二人でその教会を久しぶりに訪れました。 このような虐殺の現場は、ある意味でルワンダの観光スポットになっており、私も日本から人が訪れると、しばしばこの場所を案内します。 教会までは未舗装道路。乾季は埃まみれになり、雨季はどろどろの道、スタックに怯えながら車を運転します。

教会のある場所は、何の変哲もない普通の村。でもそこを訪れるたびに、胸がいっぱいになります。 この場所で、いいえ、ルワンダ全土で数え切れないほどの人たちが命を落とした。あれから9年経ったけれども、彼らの魂は今もルワンダをさまよっています。

ニャマタ教会では、墓守をしているおじさんが丁寧に説明をしてくれます。その時の様子、そしてそれに至るまでの過程も。教会の入り口には手榴弾の跡。中に入ると、今はきれいに片付けられていますが、天井や壁を見ると血の跡が生々しく残っています。人間の血はあんなに高いところまで噴出すのかしら。そして壁には乳飲み子をたたきつけて殺したという血の跡。祭壇の上には、神父様が着ていたという血に染まった白い服。

地下は遺骨を納めるために作られました。少し前までは、トイレに捨てられていたという遺体が安置されていました。今は遺体が傷んできたため、棺おけに入れられています。

教会裏手には大きな二つの地下室があり、遺骨が納められています。そして教会の横には二つのお墓。一つはイタリアから来たシスターのお墓です。 彼女はこの地方で奉仕活動を行っていました。92年、内戦が悪化する前に、彼女は既にルワンダの不穏な動きを感じ取っていました。「このまま放置しておいたら大変なことになる」と危惧した彼女は、世界のマスコミにこのことをいち早く伝えました。そしてその頃ルワンダの虐殺をたくらんでいた人たちは、彼女のこうした世界への働きかけを疎ましく思い、彼女を殺してしまったということです。

この教会の入り口には一つの看板が。「自分たちの愚かさに気づいていれば、こんな事は起こらなかったはずなのに」と言う内容です。 そしてもう一つのンタラマ教会。ここを訪れるたびに、木々の緑と葉っぱの擦れ合うざわめきに心が動かされます。田舎にひっそりとある小さな教会です。95年初めてここを訪れた時は、死の臭いでいっぱいでした。お御堂の中は、放置された遺体・衣類・家財道具があふれていました。みんなまさか神に祈る場所で殺戮は起きないだろうと思い、生活用品を持ち込んで、ここに逃げ込みました。でも結果として、みんなが集まる所が狙われてしまったのです。

転がっているお鍋や毛布などがさまざまな事を物語っています。そしてその傍らには聖書。殺されながら、彼らは何を思ったのでしょう。遠くなる意識の中、神様にお祈りをしたのでしょうか?

この教会は今少しずつ片付けられています。当時のまま、置いておく予定でしたが、遺体などの傷みも激しいため、骨は一箇所に集められています。

その中に誰かの写真を見つけました。結婚式で家族が集まって撮った写真です。ここで眠る一人一人の人間に、それぞれの人生があったはずです。 子供の母親、誰かの恋人。誰一人として死にたかった人はいなかったはず。いつも思うことは、一つ間違えれば、この中にガテラもいたかもしれないということ。 それを考えると胸が苦しくなります。隅っこの方には身分証明書が落ちていました。内戦前に発行された身分証明書です。 それはフツ・トゥワというところに斜線が引いてあり「ツチ」というところが残されています。彼らはこのために殺されてしまったのです。ほとんど明確でない理由で分けられてしまったルワンダの人たち。民族あるいは部族というものを利用した政治が絡んだ殺し合い。このために100万人以上の人が死んでしまいました。殺された人はツチの人たちだけではありません。フツの人もたくさん殺されたということです。

ルワンダ国内で、94年の虐殺と何の関係もない人はいないのではないでしょうか。家族を殺された人、そして殺した側もたくさんいます。 あれから9年が経ち、その現場を訪れ、あまりに平和そうな教会を見ると、一瞬頭の中が白くなります。本当にここでそんな恐ろしい事があったのだろうかと。

ンタラマ教会にも墓守をしているおばさんがいます。行くたびに笑顔をいっぱい浮かべ歓迎してくれます。 でも彼女のご主人もここで殺されてしまった。案内をしながら「実はそうだったのよ」と遠くを見つめる。なんと答えていいのか迷う私。 そのような経験がない私は、返す言葉を失ってしまいます。彼女は教会中に散らばっている遺骨や遺品を一つ一つ整理しています。 遺骨は特別の薬品を使って、きれいに洗われ、台の上に並べられています。どのような思いでその作業を行っているのでしょう。

ルワンダの人たちはとても、とても傷ついた。その傷が癒えることはあるのかしら。理解しようと思っても、到底理解できない私。 私は一人でも多くの人が、ここを訪れることを望んでいます。そしてルワンダで起こった惨劇を、隣の人に伝えていってほしい。94年の出来事を、自分の目で見て、心で感じて、その上で同じ過ちを繰り返さないように、未来を見詰め合っていければと思います。この惨劇は、たまたまルワンダという国で起こってしまったけれども、いつどこで、同じような事が起こってしまうとも限らない。人間がもしも賢い動物であるならば、このことから学ぶことは限りないはず。

教会の入り口にあった看板「自分たちの愚かさに気づいていれば、こんな事は起こらなかったはずなのに」。とても重たい言葉です。そしてこの言葉は、世界中あちこちで起こってしまっている戦争・テロなどの張本人にも投げかけなければいけないのではないでしょうか。

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ルワンダの未来

ルワンダでは8月25日に大統領選挙が行われました。ルワンダという国が出来上がってから、初めての民主的な大統領選挙です。 その当日、私は5年ぶりにルワンダを訪れた父を日本に連れて戻るために、残念ながらルワンダにいる事はできませんでした。 でも恐れていた混乱もなく、無事に選挙を終えたとのことです。

8月に入り、本格的な選挙活動が始まりました。候補は4人いましたが、実際に対決するであろう候補は二人。 現大統領のポール・カガメ氏と内戦後間もなく総理大臣に選ばれたにもかかわらず、フランスに行ってしまったトワギラムング氏。

私は個人的にはカガメ氏を応援していました。キガリ市にあるスタジアムで行われた彼のキャンペーンにも行きました。その日は一体何人の人が集まったのでしょう。 スタジアムは満員です。カガメ氏をたたえる歌、踊りなどが次々を披露され、大観衆の中、カガメ氏が登場しました。会場は大騒ぎです。日本のように、ただ候補者の名前を連呼するようなちゃちな選挙活動ではありません。一つのイベントになっているような気がします。Tシャツ・帽子・雨傘など、全てカガメ氏の顔がプリントされています。カガメ氏をたたえる歌などは、ずっとかかっていたため、この原稿を書いている今も、頭の中にそのメロディーが浮かんできます。

カガメ氏はその集会で言いました。「もう一人の対抗馬は出来上がった家に上がりこんで、あれこれと意見を述べているようなものだ」と。つまり家を建てる時は、何も手を貸さなかったのに、出来上がった今、それに対して物申しているということです。

人それぞれ、いろいろな意見があると思いますが、私はこのカガメ氏の意見に同意します。 実際に内戦後のルワンダを立て直すために、ひたすら努力を続けたのは誰でもない、カガメ氏自身だと思うからです。 国の状態がほとんどゼロになってしまったにもかかわらず、ルワンダをここまで復興させたのは彼のルワンダに対する真剣な思いがあったからに間違いありません。

内戦後の大切な時、さっさと国外に出てしまった人が、いまさら何を述べても、真実味がありません。だってその間、どんな理由をつけたとしても、国民がみんながんばっているときに、一緒に汗を流さなかったのですから。

ルワンダで仕事をしていると、時々思います。この国をまとめるためには、半端ではない苦労が必要だって。 日本のようにみんなが平均的な生活をしているわけではありません。ルワンダではお金を持っている人は、きっと限りなく持っているであろうし、 ない人はとことんない生活を強いられているでしょう。教育にしても同様です。高等教育を充分に受けている人がいるかと思えば、自分の名前を書けない人もいます。 それらの人たちを、一つの国の中にまとめなくてはいけない大統領の仕事。本当に大変なのではないでしょうか。

94年に内戦が終わり、さまざまな問題はまだ解決していないけれども、ルワンダは今日まで歩んできました。 その歩みを振り返ってみると、私はいつもワンラブの歩みをオーバーラップしてしまいます。

内戦終結と共に、ケニアからルワンダに戻ったガテラ。戻ってすぐにした事は、義肢製作を行うための場所を確保するということ。 そして政府に自分たちの姿勢を見せるための書類の手続き。数年かかってNGOの承認を受けました。確保した場所は内戦で傷んでしまっていたため、修理を施しました。私は日本で資金集めと義足を作るための準備。確実なものは何もなかったけれども、ルワンダでこれを行いたいという気持ちだけが、心の底にあったような気がします。

内戦後はやはりそれなりに大変だったと思います。住んでいたところは、まだ水道がなかったため、雨が降ると軒下にバケツやたらいを持っていって雨水を貯めました。でもそれもなんとなく楽しみながらやっていたのではないかしら。

でもみんなの力を借りながら、ワンラブはここまでやってきました。ルワンダの政府からは義肢製作所やその他を作るための土地をいただき、いろいろな意味で協力をしてくれています。もちろん日本の人たちからの協力はとても大きなものでした。

内戦後のルワンダの歩みはワンラブの歩みと一致します。ルワンダが一歩進めば、ワンラブも負けじと一歩進んでいったような気がします。 今回の大統領選挙。私たちにとってはとても大きな意味がありました。カガメ氏が当選した事は私たちの励みであり、これから新たな一歩を踏み出すための区切りとなりました。

この先、ルワンダはどのように発展していくでしょうか。もしかしたら歩みは遅いかもしれない。でも確実に前に進んでいく事を、私たちは信じています。ワンラブがルワンダと共に、これからも歩んでいけますように。

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